結論から言うと、令和8年4月8日に新設された「情報公表加算」は、スタートアップにとって諸刃の剣です。20万円の加算を取りに行く過程で、自社の正社員転換の運用実態を外部に公表することになるため、転換期間が極端に短い場合は「最初から正社員として雇う予定だったのでは?」という疑義を自ら生むリスクがあるのです。
情報公表加算とは何か?令和8年度の新制度を整理
キャリアアップ助成金(正社員化コース)は、有期雇用労働者を正社員に転換した事業主に40万円(中小企業)を支給する制度です。令和8年4月8日の改正で、以下の情報をウェブサイトまたは「しょくばらぼ」(職場情報総合サイト)に公表した場合、1事業所あたり20万円が加算される制度が新設されました。
公表が求められる3項目
- 正規雇用労働者への転換制度の概要
- 直近3事業年度の転換実績(人数)
- 転換までに要した平均期間と最短期間
ここで問題になるのが3番目です。スタートアップでよくあるのが、入社6ヶ月(制度上の最短期間)で即転換しているケースです。この「最短6ヶ月」が公表されること自体は違法ではありませんが、労働局の審査担当者が見たときに「本来は正社員として採用する予定だった人材を、助成金目的で有期契約にしていたのでは」という疑念のトリガーになります。
なぜ「転換期間の短さ」が問題になるのか
キャリアアップ助成金の支給要件には「正規雇用労働者として雇用することを約して雇い入れられた者でないこと」が明記されています。つまり、面接時に「6ヶ月後に正社員にするから」と口頭で約束していた場合、その労働者は対象外です。
しかし現実には、この「約束」の有無を立証するのは難しいため、グレーゾーンで運用してきた企業が少なくありません。ところが情報公表加算の申請によって、以下のデータが第三者の目に触れることになります。
- 転換実績が全員6ヶ月(制度上の最短)→ 計画的な転換を示唆
- 直近3年で大量の転換実績 → 採用計画と助成金計画が一体化している可能性
- 転換対象者の属性が特定職種に集中 → その職種では本来正社員採用が自然
私がIPO労務監査でスタートアップの雇用契約を確認すると、入社時のオファーレターに「試用期間6ヶ月、その後正社員登用」と書かれているケースが実に多いのです。これは事実上の正社員転換予約であり、本来はキャリアアップ助成金の対象外になるべき運用です。
IPO準備で発覚する「助成金目的の有期契約」の実態
以前、シリーズBのSaaS企業のIPO労務監査を担当した際、まさにこのパターンが発覚しました。エンジニア採用で「有期契約→6ヶ月後に正社員転換」を全員に適用し、年間10名×80万円=800万円の助成金を受給していたのですが、採用時のSlackログや内定通知書を確認したところ、全員に対して面接段階で「正社員前提」と説明していたことが判明しました。
制度を先に整えてから採用する——これが私がスタートアップに常に伝えていることです。助成金のために雇用形態を歪めるのではなく、本来の人事課題(例えば「採用後のスキル見極め期間が必要」)が先にあり、その制度設計の結果として有期→正社員の転換パスが生まれ、副産物として助成金が付いてくる。この順序が正しいのです。
情報公表加算を「安全に」取得するための3条件
1. 転換期間にバラつきがあること
全員が最短6ヶ月で転換されている場合、計画的な運用が疑われます。実態として、スキル習得度や業績評価によって転換時期が6ヶ月〜18ヶ月の幅で分散していることが自然です。就業規則に「有期雇用期間中の業績評価により、所定の基準を満たした場合に正社員転換の対象とする」と明記し、評価基準を文書化しておくことがポイントです。
2. 有期契約に「合理的な理由」が説明できること
IPO審査で説明できるか——これが私の意思決定基準です。「なぜこのポジションを有期で採用するのか」を聞かれたとき、「スキルの見極めに一定期間が必要」「プロジェクト型業務のため」など、助成金とは無関係の合理的理由があることが重要です。
3. 公表データの「見え方」を事前シミュレーションすること
情報公表加算の申請前に、公表予定のデータを第三者の目で確認してください。具体的には以下のチェックリストを使います。
- 平均転換期間が8ヶ月以上あるか(6ヶ月ジャストは要注意)
- 最短転換者に個別の合理的説明ができるか
- 転換率が100%ではないか(全員転換は「全員正社員前提」と読まれる)
- 転換後の賃金上昇が3%ちょうどに張り付いていないか(形式的な運用を示唆)
令和8年度のもう一つの変更点:計画届の届出制移行
令和7年度からキャリアアップ計画は労働局長の「認定」が不要になり、「届出」のみで完了するようになりました。これにより手続きは簡素化されましたが、裏を返せば事前の行政チェックが入らなくなったということです。
計画届の段階で「この運用は対象外になりますよ」と指摘されるチャンスが減った分、申請後の審査で不支給になるリスクが高まっています。朝のSlack確認で「助成金申請が通らなかった」という相談が届くケースが、この半年で明らかに増えています。
不正受給のペナルティは想像以上に重い
「悪意はなかった」は通用しません。キャリアアップ助成金では例年約200件の不正受給が発覚しており、以下のペナルティが科されます。
- 受給額全額の返還+年3%の延滞金+受給額の20%の違約金
- 事業主名の公表(企業名がネットに残る)
- 5年間の全助成金の支給停止
- 悪質な場合は刑事告発(詐欺罪)
特にIPOを目指すスタートアップにとって、事業主名の公表は致命的です。上場審査で「助成金の不正受給歴あり」が発覚すれば、それだけでレッドフラグになりかねません。
FAQ
Q1. 情報公表加算は全事業所で1回だけですか?
A. はい。1事業所あたり1回限りの加算です。正社員転換1人につき40万円は複数回受給できますが、情報公表加算20万円は初回のみです。したがって、20万円のために不支給リスクを冒す判断は慎重に行う必要があります。
Q2. 転換期間が全員6ヶ月でも情報公表加算は受給できますか?
A. 制度上は可能です。ただし、公表データが審査担当者の目に入ることで追加調査の端緒になる可能性があります。情報公表加算の申請が「正社員前提採用」の疑義を生む自爆行為にならないよう、事前に社内のオファーレターや面接記録を確認してください。
Q3. しょくばらぼへの公表と自社サイトでの公表、どちらが良いですか?
A. 制度上はどちらでも構いませんが、自社サイトの場合は改ざん防止の観点から公表日が特定できる必要があります。しょくばらぼは厚労省が運営するため、公表日の証明が容易で審査上のトラブルが少ない傾向にあります。
Q4. 情報公表加算の公表内容は一度掲載したら変更できませんか?
A. 毎年度の実績に応じて更新することは想定されていますが、支給申請時点での公表内容が審査対象になります。過去に公表した内容と矛盾する申請を行うと不支給の原因になり得るため、最初の公表時に正確なデータを掲載することが重要です。
Q5. IPO準備中ですが情報公表加算を申請しても問題ありませんか?
A. 問題ありませんが、公表データの整合性がIPO労務監査の対象になることを認識してください。公表した転換実績と実際の雇用契約書・就業規則に矛盾がないことを事前に確認することを強く推奨します。
まとめ:加算20万円の前に「人事制度の整合性」を確認せよ
情報公表加算は、キャリアアップ助成金の「見える化」を促進する良い制度です。しかしスタートアップにとっては、これまで見えなかった運用実態が白日の下に晒される契機でもあります。20万円の加算を取りに行く前に、まず自社の有期雇用→正社員転換の運用が制度趣旨に沿っているかを確認してください。スケーラブルな人事制度を設計し、3年後のIPO審査でも説明できる状態にしておくことが、結果的に助成金も含めたリターンを最大化します。




