結論から言うと、キャリアアップ助成金の「短時間労働者労働時間延長支援コース」と「正社員化コース」を同じ労働者に対して二段階で申請する戦略は、設計次第で最大155万円(小規模企業の場合)の受給が可能です。しかし、スタートアップでよくあるのが、SNSで見た「裏技」的な情報をそのまま真似して、要件の確認を飛ばした結果、どちらのコースも不支給になるパターンです。

「二段階申請」とは何か?令和8年度の制度を整理する

キャリアアップ助成金には令和8年度時点で6つのコースがあり、大きく「正社員化支援」と「処遇改善支援」に分かれます。このうち、短時間労働者の処遇を段階的に引き上げる方法として、以下の二段階が注目されています。

ステップ1:短時間労働者労働時間延長支援コース

週所定労働時間を延長し、社会保険に新たに加入させた事業主に支給されます。令和8年度の支給額は以下のとおりです。

  • 5時間以上延長:小規模企業50万円/中小企業40万円
  • 4時間以上5時間未満(基本給5%以上増額とセット):小規模企業40万円/中小企業32万円
  • 2年目の追加取組(さらに2時間以上延長、基本給5%以上増額等):小規模企業25万円追加/中小企業20万円追加

ステップ2:正社員化コース

有期雇用労働者を正社員に転換した事業主に支給されます。重点支援対象者(雇入れから3年以内の有期雇用労働者等)の場合、中小企業で最大80万円(第1期・第2期合計)が受給できます。

理論上、ステップ1で労働時間を延長して社保に加入させた後、さらに正社員に転換すれば、1人の労働者に対して両方の助成金を受給できる可能性があります。しかし、ここに4つの落とし穴があるのです。

落とし穴1:キャリアアップ計画書の「対象コース」が片方しか書かれていない

キャリアアップ助成金を受給するには、事前にキャリアアップ計画書を労働局に届け出る必要があります。令和7年度以降、計画は労働局長の「認定」から「届出」に変わり、手続きは簡素化されました。しかし、この簡素化が裏目に出るケースが増えています。

計画書には「実施予定のコース」を記載する欄があります。二段階申請を狙う場合、最初から「短時間労働者労働時間延長支援コース」と「正社員化コース」の両方を記載しておく必要があります。ところが、ステップ1のことしか考えずに計画書を出してしまい、後からステップ2を思いついて正社員化コースを追加しようとすると、計画の変更届が必要になります。

制度を先に整えてから実行する——これが鉄則です。「まず労働時間を延長して、うまくいったら正社員にしよう」という場当たり的な運用では、計画書との整合性が取れず、審査で不備を指摘されるリスクが高まります。

落とし穴2:社会保険適用要件の「6ヶ月前」ルールを見落とす

短時間労働者労働時間延長支援コースの対象となる労働者には、以下の要件があります。

  • 社会保険加入日の6ヶ月前の日以前から、同一事業主に継続して雇用されていること
  • 社会保険の加入要件を満たさない労働条件で就業していたこと
  • 過去2年間、その事業所で社会保険に加入していなかったこと

スタートアップでよくあるのが、採用して3ヶ月目のパートタイマーの労働時間を延長し、社保に加入させてしまうケースです。この場合、「6ヶ月前から継続雇用」の要件を満たしていないため、ステップ1の助成金が不支給になります。

以前、シリーズBのSaaS企業でバックオフィスのパートタイマー3名の処遇改善を支援したとき、まさにこの問題に直面しました。経営陣が「早く社保に入れてあげたい」と善意で動いた結果、助成金の要件を満たさないタイミングで社保加入してしまい、申請できなくなったのです。善意と要件は別物です。入社日から逆算して、最短でいつ社保加入させれば要件を満たすか、カレンダーに落とし込む作業を必ずやってください。

落とし穴3:正社員転換の就業規則整備が後回しになる

ステップ2の正社員化コースを申請するには、就業規則に「正社員への転換制度」が明記されている必要があります。具体的には、転換の対象者、転換時期、選考方法、転換後の労働条件が就業規則に記載されていなければなりません。

問題は、ステップ1の時点では正社員転換を想定していなかったスタートアップが、後から「ついでに正社員化コースも申請しよう」と思い立つケースです。就業規則に転換制度の記載がないまま正社員に転換しても、助成金の支給要件を満たしません。

しかも、就業規則の改定は転換「前」に完了している必要があります。朝のSlack確認で「昨日正社員にしたんですが、今から就業規則を変えて間に合いますか」という相談が飛んでくることがありますが、結論から言うと、間に合いません。就業規則の改定→労働基準監督署への届出→転換の実施、この順序は絶対です。

私がIPO労務監査をやっていて感じるのは、スタートアップの就業規則は「雛形のまま」であることが非常に多いということです。雛形には正社員転換制度の条文が入っていないケースが大半です。以前、シリーズBのSaaS企業で就業規則を3週間で整備してキャリアアップ助成金の申請要件を満たした経験がありますが、あれは経営陣が最初から人事制度の整備を目的としていたから実現できた話であり、助成金が先に来ていたら間に合わなかったでしょう。

落とし穴4:支給申請期限がコースごとに異なることを知らない

キャリアアップ助成金の支給申請には、各コースに固有の申請期限があります。

  • 短時間労働者労働時間延長支援コース:社会保険適用後、6ヶ月間の賃金支払い実績が確認できた日の翌日から起算して2ヶ月以内
  • 正社員化コース(第1期):正社員転換後、6ヶ月間の賃金支払い実績が確認できた日の翌日から起算して2ヶ月以内
  • 正社員化コース(第2期):正社員転換後12ヶ月間の賃金支払い実績が確認できた日の翌日から起算して2ヶ月以内

二段階申請の場合、ステップ1とステップ2の申請期限が異なるタイミングで到来します。少人数のスタートアップでは、バックオフィス担当が経理・労務・総務を兼務していることが珍しくなく、ステップ1の申請で安心してステップ2の期限を忘れるケースが実務上発生しています。

両立支援等助成金の案件で、育休開始日起算の申請期限を管理できずに不支給になったスタートアップの教訓と同じ構造です。助成金の申請期限は「イベント完了後」ではなく「イベント開始日から起算」されるものが多く、カレンダーに自動リマインダーを設定しない限り、人間の記憶では管理しきれません。

二段階申請を「安全に」実行するためのチェックリスト

二段階申請を検討するスタートアップは、以下の5項目を事前に確認してください。

  1. キャリアアップ計画書に両方のコースを記載しているか:後からの追加は変更届が必要。最初から二段階を見据えた計画を作成する
  2. 対象労働者の雇入れ日から6ヶ月以上経過しているか:社保加入のタイミングを入社日から逆算する
  3. 就業規則に正社員転換制度が明記されているか:雛形のままでは要件を満たさない。転換前に改定・届出を完了させる
  4. 各コースの支給申請期限をカレンダーに登録しているか:ステップ1の社保適用日、ステップ2の転換日、それぞれから起算した申請期限を管理する
  5. IPO審査との整合性が取れるか:二段階の処遇変更に合理的な理由があるか。「助成金目的で労働条件を段階的に変えた」と読まれないか

最後の項目は、IPOを目指すスタートアップにとって特に重要です。スケーラブルな人事制度として3年後にも説明できる設計か——これが私の判断基準です。「パートタイマーの業務範囲が拡大したから労働時間を延長した」「業績評価で基準を満たしたから正社員に登用した」という合理的なストーリーがあれば、二段階申請は正当な制度活用です。しかし、助成金を最大化するために労働条件を操作したと判断されれば、不正受給のリスクを負うことになります。

FAQ

Q1. 短時間労働者労働時間延長支援コースと正社員化コースは同じ労働者に対して両方申請できますか?

A. 制度上、異なるコースを同一労働者に対して申請すること自体は禁止されていません。ただし、キャリアアップ計画書に両コースが記載されていること、各コースの要件をそれぞれ満たしていること、そして処遇変更に合理的な理由があることが前提です。不明な場合は管轄の労働局に事前確認してください。

Q2. ステップ1で社保加入した後、最短でいつ正社員転換できますか?

A. 短時間労働者労働時間延長支援コースの支給申請には、社保適用後6ヶ月間の賃金支払い実績が必要です。この6ヶ月間の途中で正社員に転換してしまうと、ステップ1の要件を満たさなくなる可能性があります。ステップ1の支給申請が完了してからステップ2の転換に進むのが安全です。

Q3. 小規模企業(30人以下)の場合、二段階で最大いくら受給できますか?

A. ステップ1(1年目の5時間以上延長)で50万円、2年目の追加取組で25万円、ステップ2(正社員化コース・重点支援対象者)で80万円。理論上の最大は155万円ですが、各コースの要件をすべて満たすことが前提です。要件不備で1つでも不支給になれば、その分がゼロになります。

Q4. キャリアアップ計画書は後から変更できますか?

A. 変更届を提出すれば追加・変更は可能です。ただし、変更届は取組の実施前に提出する必要があります。既に実施済みの取組を後から計画に追加しても、遡って助成金を受給することはできません。

参考文献