結論から言うと、スタートアップの助成金申請が不支給になる原因の大半は「就業規則」にあります。

私はスタートアップ専門の社労士として年間100件超の助成金を処理していますが、相談に来る企業の約7割は就業規則がテンプレートのまま——つまり、会社設立時にネットからダウンロードした雛形を一度も改定していない状態です。助成金の審査では「就業規則に規定があること」が大前提になるため、雛形のままでは複数の助成金コースで同時に不支給リスクを抱えることになります。

この記事では、就業規則の未整備が引き起こす3つの不支給パターンと、制度を先に整えてから助成金を狙うアプローチを解説します。

パターン1:正社員転換規程が「存在しない」or「日付が曖昧」でキャリアアップ助成金が不支給

何が起こるか

キャリアアップ助成金(正社員化コース)は、有期雇用労働者を正社員に転換した場合に中小企業で1人あたり最大80万円が支給される制度です。しかし、就業規則に正社員転換の規程がなければ、そもそも申請資格がありません

スタートアップでよくあるのが、「転換のルールは口頭で伝えている」「Slackで『来月から正社員ね』と連絡している」というパターンです。どれだけ実態として転換が行われていても、就業規則に以下が明文化されていなければ不支給になります。

  • 転換の対象者の範囲(勤続○ヶ月以上の有期雇用労働者、など)
  • 転換の時期(毎月1日、四半期ごと、など具体的な日付)
  • 転換の手続き(本人の申出→面談→社内審査→通知、などのフロー)
  • 転換後の労働条件(賃金、賞与、退職金、昇給の有無)

特に危険な「転換日のズレ」

就業規則に「転換は毎月1日に行う」と書いてあるのに、実際には月の途中で転換している——このズレだけで不支給になります。令和8年度のキャリアアップ助成金では、就業規則の転換規程に基づいた転換であることが厳格にチェックされます。転換日・転換手続き・通知方法が就業規則と一致していないと、書類審査の段階で弾かれます。

加えて、令和8年度からは正社員の定義として「賞与もしくは退職金制度」と「昇給制度」の両方が就業規則に明記されていることが必須です。雛形の就業規則では「賞与は業績により支給することがある」のような曖昧な記載になっていることが多く、これでは正社員の処遇として認められません。

パターン2:賞与規定が「支給しないことがある」で賞与・退職金制度導入コースが不支給

「原則として支給する」と「支給することがある」は別物

キャリアアップ助成金(賞与・退職金制度導入コース)は、パート・契約社員に賞与制度を新設した場合に1事業所あたり最大40万円が支給されます。ここで問題になるのが、就業規則の賞与規定の書き方です。

助成金の審査では、賞与規定が「原則として支給する」建付けになっているかが確認されます。雛形の就業規則にありがちな「業績により賞与を支給しないことがある」「会社の判断により支給する」といった表記は、制度として確立されていないと判断され不支給になるリスクがあります。

スタートアップでよくあるのが、「賞与は出すつもりだけど、キャッシュフロー次第だから就業規則には含みを持たせておきたい」という発想です。気持ちはわかりますが、助成金の審査で見られるのは実態ではなく規程の文言です。「原則として支給する。ただし、業績の著しい悪化等やむを得ない事由がある場合はこの限りでない」——このレベルの具体性が必要です。

初回支給額が極端に少額だと「制度の実態なし」と判断される

就業規則を直しても、初回の賞与支給額が数百円や数千円だと「制度としての実態がない」と判断されるリスクがあります。助成金のためだけの形式的な制度導入と見なされれば、審査で不支給になります。制度を先に整えてから運用する——この順番が重要です。

パターン3:育児・介護関連規定が法改正に追いついておらず両立支援等助成金が不支給

2025年の段階施行を「半分だけ」対応したスタートアップ

両立支援等助成金は、育児休業等支援コースや育休中等業務代替支援コースなど複数のコースがありますが、いずれも就業規則に法令を上回る制度が規定されていることが前提です。法律を上回る制度を実際に運用していても、就業規則に規定がなければ助成対象として評価されません。

育児介護休業法は2025年4月と10月に段階施行されました。4月改正(子の看護休暇の対象拡大、テレワークの努力義務化)には対応済みだが、10月施行分の「柔軟な働き方選択制度」義務化への就業規則改定を後回しにしている——私がIPO労務監査を実施した3社のうち約7割がこの状態でした。

「柔軟な働き方選択制度」では、以下5つの選択肢から2つ以上を就業規則に明文化する必要があります。

  1. 始業時刻の変更等(フレックスタイム制・時差出勤)
  2. テレワーク等(月10日以上)
  3. 短時間勤務制度(原則の3歳→小学校就学前まで延長)
  4. 保育施設の設置運営等
  5. 新たな休暇の付与(年10日以上)

この規定が就業規則に入っていないと、2026年度の両立支援等助成金の申請時に「法令遵守要件を満たしていない」と判断され、育児関連のコースが軒並み不支給になります。

IPO審査と助成金審査は表裏一体

朝のヨガの後にSlackを開くと、IPO準備中のクライアントから「労務監査で就業規則の不備を指摘された」という連絡が入ることがあります。実はこの不備は、助成金の不支給原因とほぼ一致します。IPO審査で見られる労務コンプライアンスと、助成金の支給要件は同じ法令遵守が土台だからです。

就業規則を法改正に追いついた状態にしておけば、IPO審査のリスク解消と助成金の申請要件充足が同時に達成できます。

就業規則を「助成金対応」にする5つのチェックポイント

以下は、スタートアップが就業規則を整備する際に最低限確認すべき項目です。

  1. 正社員転換規程:対象者・時期・手続き・転換後の労働条件を具体的に明記しているか
  2. 正社員の定義:賞与または退職金制度+昇給制度が明文化されているか
  3. 賞与規定:「原則として支給する」建付けになっているか(不支給の場合の例外事由が限定的か)
  4. 育児・介護休業規定:2025年10月施行分(柔軟な働き方選択制度)を含む最新の法改正に対応しているか
  5. 各種手当の定義:支給要件・金額が就業規則に明記されているか(口頭運用の手当は助成金の算定対象外)

以前、シリーズBのSaaS企業(社員30名)から「キャリアアップ助成金を狙いたい」と相談を受けたことがあります。就業規則は雛形のまま。正社員転換規程・教育訓練規程を3週間で整備し、申請した結果1500万円が採択されました。しかしこのケースで重要なのは金額ではなく、就業規則を整えたことで社員転換のルールが社内文化として定着したことです。助成金は副産物——就業規則を整える本来の目的を取り戻すと、採択は自然と付いてきます。

就業規則の届出タイミングと助成金スケジュールの逆算

就業規則を改定したら、所轄の労働基準監督署に届け出る必要があります(常時10人以上の事業場の場合)。10人未満でも、助成金の申請では「就業規則に相当する文書」の提出が求められるため、社内規程として整備しておく必要があります。

特に注意すべきは、キャリアアップ助成金のキャリアアップ計画書です。計画書は就業規則の変更(正社員転換規程の新設など)よりも前日までに届け出る必要があります。6月は届出が集中するため、処理遅延リスクがあります。7月以降の転換を計画しているスタートアップは、今すぐ動き始める必要があります。

逆算スケジュールの目安は以下のとおりです。

  • 転換予定日の4週間前:キャリアアップ計画書を労働局に届出
  • 転換予定日の3週間前:就業規則の改定・届出
  • 転換予定日の2週間前:労働条件通知書の作成・対象労働者への説明
  • 転換日:就業規則に基づいた正社員転換を実施

よくある質問(FAQ)

Q1. 従業員10人未満のスタートアップでも就業規則は必要ですか?

労働基準法上の届出義務は常時10人以上の事業場に限られますが、助成金の申請では10人未満でも就業規則に相当する社内規程の提出が求められます。キャリアアップ助成金や両立支援等助成金を申請する場合、従業員数に関わらず就業規則の整備は事実上の必須条件です。

Q2. 就業規則の雛形をそのまま使って助成金が通ることはありますか?

雛形の内容がたまたま要件を満たしていれば通る可能性はゼロではありませんが、実務上はほぼ不可能です。助成金ごとに必要な規程(正社員転換規程、賞与・退職金規定、育児介護休業規定など)が異なり、雛形がこれらを網羅していることはまずありません。特に令和8年度のキャリアアップ助成金では正社員の定義として「賞与or退職金+昇給」の明記が必須であり、この要件を満たす雛形はほとんど存在しません。

Q3. 就業規則を改定してからどのくらいで助成金の申請ができますか?

キャリアアップ助成金(正社員化コース)の場合、就業規則に転換規程を新設し、その規程に基づいた転換を6ヶ月以上運用した実績が必要です。つまり、就業規則を改定した日から最短でも6ヶ月+支給申請期間が必要になります。「助成金を来月申請したい」というスケジュールでは間に合いません。逆算して計画を立てることが重要です。

Q4. 就業規則の改定は社労士に依頼すべきですか?自社でもできますか?

自社でも改定は可能ですが、助成金の支給要件を満たす記載にするには、各コースの要綱と照らし合わせた確認が必要です。特に正社員転換規程の対象者範囲や転換手続きの記載は、曖昧な表現が一つあるだけで不支給になるリスクがあります。少なくとも改定後のレビューは専門家に依頼することをお勧めします。

Q5. 複数の助成金に同時に対応できる就業規則の作り方はありますか?

あります。正社員転換規程・賞与規定・育児介護休業規定・教育訓練規程を一括で整備すれば、キャリアアップ助成金(正社員化・賞与退職金導入)、両立支援等助成金、人材開発支援助成金の各コースに横断的に対応できます。制度設計を先に行い、就業規則を一度で整えれば、個別の助成金申請は副産物として付いてきます。

参考文献