結論から言うと、10月1日は「気づいたときには手遅れ」になりやすい
2026年10月1日、社会保険の「106万円の壁」が撤廃される。週20時間以上働く短時間労働者は、収入額にかかわらず社会保険の適用対象になる。この変化を機に、「うちのパートさんも正社員に転換して、キャリアアップ助成金を申請しよう」と動き出すスタートアップが増えている。
気持ちはわかる。でも今日は9月15日。10月1日まで残り2週間しかない。
スタートアップでよくあるのが、「制度が変わったから動く」という後手後手の対応だ。キャリアアップ助成金(正社員化コース)には、転換日の「前日まで」に完了しなければならない事前手続きがある。10月1日に転換したいなら、9月30日までに準備が終わっていないといけない。そしてその準備には、思った以上に落とし穴がある。
今回整理するのは、「10月の社保適用拡大を機に短時間労働者を正社員転換しようとするスタートアップ」が陥る3つの構造的なミスだ。このパターンを事前に知っておくだけで、転換チャンスを逃さずに済む。
前提:キャリアアップ助成金(正社員化コース)の主な要件
まず制度の骨格を確認する。令和8年度の正社員化コースは、有期雇用・短時間労働者・派遣労働者を正社員に転換した事業主に、1人最大80万円(中小企業・重点支援対象者)を支給する制度だ。
| 要件 | 内容 |
|---|---|
| 転換前の雇用形態 | 同一事業主に引き続き6ヶ月以上の有期雇用(または無期雇用) |
| 転換後の処遇 | 正規雇用労働者として社会保険の被保険者になること |
| 賃金要件 | 転換後の賃金が転換前6ヶ月の賃金と比較して3%以上増加していること |
| 事前手続き | キャリアアップ計画書(または変更届)を転換実施日の前日までに提出済みであること |
| 支給額(有期→正社員・重点支援対象者) | 中小企業 1人最大80万円(6ヶ月後40万円+12ヶ月後40万円) |
10月1日の社保適用拡大そのものは、正社員化コースの申請要件を直接変えない。だが「社保適用をきっかけに転換を決める」という動機が増えることは確実だ。そしてそのタイミングで動き始めると、3つのパターンで詰まることになる。
パターン①:「6ヶ月のカウント」を社保適用日から始まると誤解して機会を1年分損する
最も多い誤解がこれだ。
「10月1日に社保が適用になったスタッフがいます。来年4月に正社員化してキャリアアップ助成金を申請する予定で……」
待ってほしい。キャリアアップ助成金の「6ヶ月以上の有期雇用継続」は、有期雇用契約の開始日から起算する。社会保険の適用日は無関係だ。
具体例で考える。2026年4月1日に有期3ヶ月(その後1回更新)で入社したスタッフがいたとする。9月末時点で在籍6ヶ月。10月1日に社保が適用になるのと同時に、6ヶ月要件はすでに満たしている。転換日を10月や11月に設定しても、要件的には問題ない。
「社保適用拡大と助成金の時計が同じ」という思い込みが、本来10月・11月に動けるはずの転換を2027年4月に後ろ倒しにしてしまう。6ヶ月分の機会損失だ。
この誤解が起きる背景には、「10月から制度が変わる」というニュースを見て「すべてが10月スタート」と受け取ってしまうパターンがある。助成金の時計は雇用契約の開始から動いている。社保の適用有無は別の話だ。
今すぐやること:在籍している有期雇用の短時間労働者全員について、有期契約の最初の開始日を確認する。6ヶ月を超えている人がいれば、その人たちは今月中にでも転換対象として動ける可能性がある。
パターン②:4月に提出したキャリアアップ計画書に「正社員化コース」が含まれていない
キャリアアップ助成金を申請するには、キャリアアップ計画書(様式第1号)を管轄の都道府県労働局またはハローワークに、取組実施日の前日までに提出しておく必要がある。
問題は、4月時点で「賃金規定等改定コースだけ申請する予定だった」というスタートアップが、10月に「正社員化コースも使いたい」と気づいたとき、変更届(様式第2号)を出してコースを追加しなければならないという点だ。
変更届は転換日の前日までに受理されている必要がある。提出日ではなく、受理日だ。郵送なら数日かかる。窓口の混雑期(年度末・4月・10月前後)は1〜2週間かかることもある。10月1日の転換を想定しているなら、9月中旬には変更届を提出して受理確認まで完了させておかないと間に合わない。
私が支援するシリーズBのSaaS企業でも、今年4月に計画書を提出した際に賃金改定コースしか選択しておらず、9月上旬に「2名を10月に正社員化したい」という相談が来た。変更届を急いで作成し、9月初旬に窓口に持参して受理された。転換日は10月1日ではなく10月7日にずらした——変更届の受理確認後にバッファを持たせるためだ。
スタートアップで多いのは、「計画書は一度出せばOK」という認識だ。コースを追加・変更するたびに変更届が必要という意識がないために、転換を実施した後から「計画書に正社員化コースが入っていなかった」と判明するケースが続く。
今すぐやること:提出済みの計画書を確認する。「正社員化コース」が記載されているか確認。記載がなければ、今週中に変更届の作成に入る。窓口への持参か、郵送の場合は受理確認まで余裕を見て動く。
パターン③:優秀なパートタイマーを正社員化すると「時給換算3%アップ要件」が崩れる
これが一番見落とされる。正社員化コースには、転換後の賃金が転換前6ヶ月の賃金より3%以上増加しているという要件がある。この比較は時間換算賃金で行うのが実務上の原則だ。月給制への転換でも、「転換後の月給÷月間所定労働時間」を時給換算して比較する。
具体的なケースで考える。
- バックオフィス担当・週20時間・時給1,900円のパートスタッフ
- 月収概算:1,900円 × 20時間 × 4.3週 ≒ 163,400円
- 10月に正社員転換・月給220,000円を提示
- 正社員の月間所定労働時間:174時間
- 転換後の時給換算:220,000円 ÷ 174時間 ≒ 1,264円
転換前の時給:1,900円 → 転換後の時給換算:1,264円。3%アップどころか、実質33%ダウンになる。
月給220,000円は「正社員の初任給としては一般的」に見える。しかし週20時間・時給1,900円で働いていたスタッフの時給換算から見れば、実質的な賃下げだ。キャリアアップ助成金の審査は、この時給換算の比較で判断される。
3%要件を満たすために必要な転換後月給を計算すると、
1,900円 × 1.03 × 174時間 = 340,338円
月給ベースで約340,000円以上が必要になる。採用・育成コストを含めれば合理的な水準だが、「月給220,000円で転換して助成金もついてくる」という感覚で動いたスタートアップは、申請段階で気づいて後悔することになる。
結論から言うと、スキルの高いパートタイマーほど正社員化の賃金設計が難しい。転換前の時給が高いほど、正社員の月給制に換算したときの時給が下がりやすい。「月額で見て上がっている」という感覚が危ない。
助成金は副産物として考えるべきで、まず「このスタッフに正当な処遇を設計するといくらか」から逆算するのが正しい順序だ。その結果として3%増加が成立すれば申請できる、という構造でないと、いつか必ず設計が破綻する。
今すぐやること:転換対象のスタッフ全員について、転換前の時給と、転換後の月給÷月間所定労働時間を計算し、3%以上の増加が成立しているか確認する。
9月中に完了すべき5点チェックリスト
制度を先に整えてから動くのが鉄則だ。10月1日が迫る今週、以下の5点を確認してほしい。
- 在籍短時間労働者の有期契約開始日一覧を作成する
SmartHRやfreeeで契約情報を抽出し、有期契約の初回開始日を確認。6ヶ月超えの対象者を特定する - キャリアアップ計画書のコース欄を確認する
「正社員化コース」が記載されているか確認。未記載なら変更届(様式第2号)を今週中に作成・提出 - 対象者の雇用契約書・労働条件通知書を確認する
「期間の定めあり(有期)」の明記があるか確認。SmartHR等のデフォルトが「期間の定めなし(無期)」になっている場合、有期→正社員の最大80万円ではなく無期→正社員の最大40万円に半減する - 転換後賃金の時給換算シミュレーションを行う
「転換後月給 ÷ 月間所定労働時間」が転換前時給の1.03倍以上になるか確認する - 就業規則の正社員転換規程を確認する
有期雇用から正社員への転換手続き・要件が就業規則に明文化されているか確認。雛形のままでは対応できていない場合が多い
FAQ
Q1. 有期雇用で働いているパートタイマーは、社保が適用になった10月1日以降すぐに正社員転換できますか?
有期雇用開始日から6ヶ月以上が経過していれば、転換の申請要件は時間的には満たせます。ただし、キャリアアップ計画書または変更届が転換日の前日までに受理されていること、および就業規則に正社員転換規程が整備されていることが前提です。10月1日に転換するなら、9月30日までに受理完了が必要です。
Q2. キャリアアップ計画書の変更届は、どこにどうやって提出しますか?
管轄の都道府県労働局またはハローワーク(雇用環境・均等部・室)に、様式第2号(キャリアアップ計画書(変更届))を持参または郵送で提出します。様式は厚生労働省のサイトからダウンロードできます。窓口の混雑状況によっては処理に1〜2週間かかることもあるため、転換日の2〜3週間前には提出するのが安全です。
Q3. 有期契約か無期契約かで、支給額はどれだけ変わりますか?
令和8年度の中小企業の場合、有期→正社員の重点支援対象者は1人最大80万円、非該当は40万円です。無期→正社員は重点支援対象者でも最大40万円、非該当は20万円です。SmartHRやfreeeのデフォルト設定で「期間の定めなし」になっている場合は、書類上の有期雇用の証明が取れず、支給額が制限されます。
Q4. 3%の賃金増加要件を満たせない場合、キャリアアップ助成金はあきらめるしかないですか?
転換後の月給を適切に再設計するか、転換時期を後ろにずらして賃金設計を整えてから転換するかを検討します。「助成金のために無理な月給を設定する」のではなく、適正な処遇水準を設計した結果として3%増加が成立する、という順序が正しい。助成金は人事制度設計の副産物として取りに行くのが本筋です。
Q5. 重点支援対象者(80万円)に該当させるには何が必要ですか?
令和8年度の要件では、①3年以上の有期雇用継続、②過去5年間の正規雇用期間合計1年以下かつ過去1年間に正規雇用経験なし、③人材開発支援助成金(リスキリング支援コース等)の訓練修了者、のいずれかに該当する必要があります。スタートアップの典型的な採用パターン(有期6ヶ月→転換)では①②を満たしにくいため、③の人材開発支援助成金との連携設計が有効です。





