M&Aで事業を買い取る場合、「事業譲渡」というスキームでは買収価格のうち純資産を超える部分が「営業権(のれん)」として計上される。この営業権は税務上5年で均等償却され、毎年のPLにコストとして乗ってくる。
融資審査の目線で言うと、営業権の償却費は減価償却費と同じく「非資金費用」だが、銀行のDSCR計算では営業権償却を加算調整しないケースが多い。つまり、営業権の償却費がそのままDSCRを押し下げる構造がある。本記事では、年商3億円・経常利益率4%の製造業モデルで、営業権の5年償却がフリーCFとDSCRに与える影響を検証し、買収価格の上限をDSCR1.2から逆算する方法を解説する。
事業譲渡の「営業権(のれん)」とは何か——税務上の扱いと融資審査での位置づけ
まず基本構造を整理する。M&Aには大きく「株式譲渡」と「事業譲渡」の2つのスキームがある。株式譲渡では買い手の個別財務諸表にのれんは計上されないが、事業譲渡では買収価格と譲受資産の時価純資産との差額が「営業権(のれん)」として資産計上される。
| 項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡 |
|---|---|---|
| のれんの計上 | 個別BSには計上されない | 営業権として資産計上 |
| 償却期間 | — | 税務上5年(均等償却) |
| PLへの影響 | なし | 毎年の償却費が営業利益を圧迫 |
| 銀行のDSCR計算 | 影響なし | 償却費がDSCRを押し下げ |
営業権の償却費は、会計上は「販売費及び一般管理費」に計上される。設備の減価償却費と異なり、銀行によっては簡易キャッシュフロー(経常利益+減価償却費)の加算項目に営業権償却を含めないケースがある。この場合、営業権の償却費はDSCRをストレートに押し下げる。
構造1:営業権2,000万円の5年償却で年400万円がDSCRを0.15ポイント押し下げる
年商3億円・経常利益率4%の製造業をM&Aで事業譲渡するケースを想定する。譲渡価格6,000万円のうち、時価純資産4,000万円との差額2,000万円が営業権として計上される。
営業権2,000万円÷5年=年400万円の償却費がPLに乗る。経常利益1,200万円が800万円に低下し、DSCRは融資返済750万円(買収資金6,000万円・8年返済)に対して1.60→1.07に急落する。
朝5時に決算書を広げてこの構造に気づいたときの衝撃は忘れられない。クライアントは買収価格を「売り手の希望額」で合意していたが、PLに営業権の償却費を載せた途端にDSCR1.2を割り込んだ。「買収価格は売り手との交渉で決めるもの」という認識は間違いではないが、銀行が貸せる範囲で買収価格の上限が決まるという現実を見落としていた。
構造2:営業権の償却費と買収資金の融資返済が「二重のPL圧迫」を生む
営業権の償却費がDSCRを押し下げる構造に加え、買収資金そのものの融資返済もDSCRを圧迫する。この二重構造が事業譲渡特有のリスクだ。
株式譲渡であれば、買収資金の返済だけがDSCRに影響する。年商3億円モデルで買収資金6,000万円・8年返済の場合、DSCRは1.60だ。しかし事業譲渡では、ここに営業権の償却費400万円が加わり、分子(経常利益+減価償却費)が400万円減少する。DSCRは1.07まで低下する。
| 項目 | 株式譲渡 | 事業譲渡(営業権2,000万円) |
|---|---|---|
| 経常利益 | 1,200万円 | 800万円(営業権償却400万円控除後) |
| 年間返済額 | 750万円 | 750万円 |
| DSCR | 1.60 | 1.07 |
| 銀行の評価 | 問題なし | 格付けダウンの可能性 |
PLの構造を見ると、事業譲渡の場合は営業権の5年償却が終わる6年目以降にDSCRが回復するが、銀行の格付けは直近2期の決算で判断されるため、最初の5年間の格付けダウンが追加融資の否決や金利見直しにつながる。営業権の償却期間と融資返済期間が重なる最初の5年間が最も危険な時期だ。
構造3:銀行ごとにDSCR計算での営業権償却の扱いが異なる「ブラックボックス」
営業権の償却費をDSCR計算でどう扱うかは、実は銀行ごとに異なる。大きく3つのパターンがある。
パターンA:設備減価償却と同様に加算調整する銀行
営業権償却を「非資金費用」として経常利益に加算する。この場合、DSCR計算への影響はゼロに近い。メガバンクや一部の地銀で採用されている。
パターンB:営業権償却を加算調整しない銀行
営業権は設備と異なり「実体のない資産」であるとして、加算調整の対象外にする。この場合、年400万円がDSCRをフルに押し下げる。信金・信組に多いパターンだ。
パターンC:営業権償却の一部のみを加算する銀行
営業権の「実態」(ブランド力・顧客基盤の継続性)を個別評価し、50〜70%程度を加算調整する。大手地銀の一部で見られる。
問題は、審査を受けるまでどのパターンが適用されるか分からない点だ。事前相談の段階で「営業権償却のDSCR加算調整はどうなりますか」と確認することが、融資設計の出発点になる。この一言を聞くかどうかで、買収価格の設計が根本的に変わる。
営業権の上限額をDSCR1.2から逆算する方法
銀行が営業権償却を加算調整しないケース(最も保守的なシナリオ)を前提に、DSCR1.2を維持できる営業権の上限額を逆算する。
年商3億円・経常利益率4%・買収資金8年返済のモデルでは、以下の算式になる。
DSCR1.2 =(経常利益 − 営業権償却費)÷ 年間返済額
経常利益1,200万円、年間返済額750万円(買収資金6,000万円・8年返済)の場合:
1.2 =(1,200万円 − X÷5年)÷ 750万円
1,200万円 − X÷5年 = 900万円
X÷5年 = 300万円
X = 1,500万円
つまり、DSCR1.2を維持するための営業権の上限は1,500万円だ。時価純資産が4,000万円であれば、買収価格の上限は5,500万円ということになる。
| 年商 | 経常利益率 | 営業権上限(DSCR1.2維持) | 買収価格上限(純資産4,000万円の場合) |
|---|---|---|---|
| 1億円 | 5% | 250万円 | 4,250万円 |
| 3億円 | 4% | 1,500万円 | 5,500万円 |
| 5億円 | 4% | 3,250万円 | 7,250万円 |
| 10億円 | 5% | 8,750万円 | 1億2,750万円 |
この早見表を持って買収交渉のテーブルに着くだけで、「銀行が貸せる範囲内の買収価格」が見える。売り手の希望価格がこの上限を超えている場合は、スキームを株式譲渡に切り替えるか、買収価格の引き下げ交渉を行う必要がある。
事業譲渡を選ぶべき場合と株式譲渡に切り替えるべき場合
営業権のDSCRインパクトだけを見れば、株式譲渡の方が有利に思える。しかし事業譲渡を選ぶべき場合もある。
事業譲渡を選ぶべき3条件
- 簿外債務リスクが大きい場合:株式譲渡では簿外債務をそのまま引き受けるが、事業譲渡では特定の資産・負債だけを選択して譲り受けられる
- 不採算部門を切り離したい場合:事業譲渡なら収益性の高い部門だけを買い取れる
- 営業権が小さい場合(=時価純資産に近い価格で買える場合):営業権が小さければDSCRへの影響も限定的
逆に、営業権が買収価格の30%以上を占める場合は、株式譲渡への切り替えを検討すべきだ。株式譲渡であれば個別BSにのれんが計上されないため、DSCRは買収資金の返済のみで計算できる。
よくある質問(FAQ)
Q1. 株式譲渡でも「のれん」は発生しますか?
株式譲渡の場合、買い手の個別財務諸表にはのれんは計上されない。連結財務諸表を作成する場合はのれんが発生するが、中小企業で連結決算を行うケースは少ない。したがって、銀行の融資審査で使われる個別決算書においてDSCRへの影響はない。
Q2. 営業権の償却期間は変更できますか?
税務上は5年の均等償却が法定されている(法人税法施行令第48条の2)。会計上は最長20年以内の任意の期間で償却できるが、税務と会計で償却期間が異なると税効果会計の処理が複雑になるため、実務上は5年で統一するケースが多い。銀行への説明もシンプルになる。
Q3. 営業権の金額はどうやって決まるのですか?
営業権は「買収価格 − 譲受資産の時価純資産」で計算される。つまり買収価格が高いほど営業権も大きくなる。買収価格の交渉次第で営業権の金額は変動するため、DSCR1.2から逆算した買収価格上限を事前に把握しておくことが重要だ。
Q4. 事業承継・M&A補助金の15次公募(2026年7月24日締切)との関係は?
事業譲渡によるM&Aの場合、事業承継・M&A補助金の事業承継促進枠で設備投資の補助を受けられる可能性がある。ただし、補助金の自己負担と営業権の償却費がDSCRを二重に圧迫するため、補助金申請前にメインバンクへ事前相談し、営業権込みの5年PLでDSCR1.2維持を確認することが鉄則だ。
Q5. 営業権のDSCR加算調整について銀行にどう聞けばいいですか?
事前相談の際に「事業譲渡で営業権が発生する予定ですが、DSCR計算で営業権償却を加算調整していただけますか」とストレートに聞くのが最善だ。回答がNOの場合は、営業権が小さくなるよう買収価格の再設計を行うか、株式譲渡への切り替えを検討する。
まとめ:買収価格は「売り手の希望額」ではなく「DSCRが許す額」から決める
事業譲渡でM&Aを行う場合、営業権の5年償却がDSCRを年0.15〜0.30ポイント押し下げる構造を事前に把握しておく必要がある。銀行ごとに営業権償却のDSCR加算調整の扱いが異なるため、事前相談で必ず確認すること。
営業権の上限額はDSCR1.2から逆算できる。年商3億円・経常利益率4%のモデルでは、営業権の上限は約1,500万円だ。この数字を持って買収交渉のテーブルに着けば、「銀行が融資を出せる買収価格の天井」が見える。
M&Aの成否は買収価格で決まるが、その買収価格は売り手の希望ではなく、買い手のDSCRが許す範囲で決まる。15次公募(2026年7月24日締切)でM&Aを検討している買い手は、まず営業権込みの5年PLを作り、銀行に事前相談してほしい。
参考文献
- 中小企業庁「中小PMIガイドライン〜中小M&Aを成功に導くために〜」(令和4年3月)
- 中小企業庁「事業承継・M&A補助金」15次公募 公募要領(令和8年5月22日公表)
- 国税庁「法人税法施行令第48条の2(営業権の償却)」
- 中小企業庁「事業承継・M&Aに関する現状分析と今後の取組の方向性について」(令和6年6月)






