従業員承継(MBO)の相談で、最初に聞くべき質問がある。「株式譲渡ですか、事業譲渡ですか」だ。
融資審査の目線で言うと、この選択を間違えると補助金枠・融資DSCR・税負担の3つで同時に損をする。にもかかわらず、顧問税理士に「事業譲渡のほうが簿外債務リスクを切れるから安全」と言われてそのまま進めてしまう後継者が少なくない。
朝5時に決算書を広げて両方のスキームの5年PLを並べると、構造的な差は歴然だ。年商3億円・経常利益率4%の製造業モデルで、株式譲渡はDSCR1.65を5年間維持できるが、事業譲渡ではDSCR1.28にとどまる。この差0.37ポイントが承継後の追加融資枠を温存できるかどうかの分かれ目になる。
構造1:事業譲渡で新設法人を作ると事業承継促進枠の補助金が使えなくなる
事業承継・M&A補助金の事業承継促進枠は、「5年以内に親族内承継又は従業員承継を予定している者」が対象だ。ここでの要件は、法人格の継続性が前提になっている。
事業譲渡スキームでは後継者が新設法人を立ち上げ、そこに事業を移す。この瞬間、旧法人と新法人は別の法人格になる。事業承継促進枠は法人格が継続する前提の制度設計であるため、新設法人での申請は実質的に困難だ。
PLの構造を見ると、この補助金を逃す影響は小さくない。事業承継促進枠の補助上限は最大800万円(補助率2/3)。15次公募(2026年7月24日締切)の設備投資を例に取ると、補助500万円の採択はフリーCFを年間約70万円改善し、DSCRを約0.05ポイント押し上げる。株式譲渡であればこの補助金を使えるが、事業譲渡で新設法人を作った時点でこの選択肢が消える。
構造2:事業譲渡の「混合融資」が返済期間を短縮しDSCRを圧迫する
株式譲渡であれば、日本政策金融公庫の「事業承継・集約・活性化支援資金」で株式買取資金を一本化できる。運転資金扱い最長10年返済・据置5年・固定金利1.5%前後。これ一本で組めるのが株式譲渡の最大の利点だ。
一方、事業譲渡では事業用資産(設備・在庫・営業権)をバラバラに買い取る。融資は資産の種類ごとに分類され、設備資金(最長15年)と運転資金(最長7年)の「混合融資」になる。特に営業権(のれん)部分は運転資金扱いで返済期間が短くなり、月々の返済額が跳ね上がる。
| 項目 | 株式譲渡(公庫10年) | 事業譲渡(混合融資) |
|---|---|---|
| 買取総額 | 5,500万円(退職金で圧縮後) | 5,500万円(設備2,500万+在庫500万+営業権2,500万) |
| 返済期間 | 10年(据置5年) | 設備15年+運転7年の混合 |
| 金利 | 固定1.5% | 変動2.0%(加重平均) |
| 2年目 年間返済額 | 利息のみ 83万円 | 元利合計 約985万円 |
| 2年目 DSCR | 2.15 | 1.28 |
| 5年目 DSCR | 1.65 | 1.22 |
銀行はここを見ている。事業譲渡で営業権2,500万円を7年返済すると、年間約357万円の元本返済が発生する。これは設備資金の返済167万円と合わせて年間524万円。株式譲渡の据置期間中(利息のみ83万円)と比べると、年間441万円の差がDSCRに直撃する。
構造3:事業譲渡の税負担は株式譲渡の1.5〜2倍に膨らむ
税務上の差も大きい。株式譲渡では売り手オーナーが株式の譲渡益に対して約20.315%(所得税15.315%+住民税5%)の分離課税を負担する。買い手側の後継者には直接の税負担がない。
事業譲渡では構造が複雑になる。
- 法人税:旧法人が事業譲渡益に対して法人税等(実効税率約34%)を負担
- 消費税:課税資産(設備・営業権等)に対して消費税10%が発生し、買い手の新設法人が負担
- みなし配当:旧法人の残余財産を分配する際、オーナーへの分配金のうち資本金等を超える部分がみなし配当として最大約55%の総合課税
年商3億円モデルで試算すると、譲渡対価5,500万円の場合、株式譲渡のオーナー税負担は約720万円(譲渡益3,550万円×20.315%)。一方、事業譲渡では法人税約510万円+消費税約450万円+みなし配当課税で合計1,200万〜1,500万円に達するケースがある。差額480万〜780万円は後継者のPLには直接現れないが、オーナーとの譲渡価格交渉に跳ね返ってくる。
私がメガバンク融資課時代に1000件審査して見えたのは、事業譲渡スキームの案件は総じて融資審査に時間がかかるということだ。資産の個別評価が必要になり、営業権の算定根拠を審査部が検証するプロセスが加わる。株式譲渡なら自社株評価1本で済むものが、事業譲渡では設備・在庫・営業権それぞれの評価が必要になり、稟議書の厚さが倍以上になる。
事業譲渡を「選ぶべき」3つの限定条件
とはいえ、事業譲渡が合理的なケースも存在する。以下の3条件に該当する場合は、DSCR低下を受け入れてでも事業譲渡を選ぶべきだ。
- 簿外債務リスクが大きい——未払残業代・環境汚染・訴訟リスクが把握しきれない場合、株式譲渡では法人格ごとリスクを引き継ぐ
- 不採算部門の切り離しが必要——複数事業のうち一部だけを承継する場合、事業譲渡で必要な部門だけを選別できる
- オーナーが法人の存続を希望する——不動産保有など旧法人を残したい事情がある場合
これら以外のケースでは、株式譲渡を第一選択とするのが融資設計の鉄則だ。
スキーム選択の3ステップ判断フレームワーク
従業員承継で株式譲渡と事業譲渡のどちらを選ぶか、以下の3ステップで判断する。
- ステップ1:簿外債務リスクの有無を確認——DD(デューデリジェンス)で簿外債務が発見された場合のみ事業譲渡を検討。発見されなければ株式譲渡一択
- ステップ2:両パターンの5年PLを作成——株式譲渡(公庫10年返済)と事業譲渡(混合融資)のDSCR推移を比較。DSCR差が0.20ポイント以上なら株式譲渡が有利
- ステップ3:税理士・銀行・補助金コンサルの三者同席キックオフ——スキーム確定後に三者で合意形成。途中変更は銀行稟議書のやり直しで2〜3ヶ月のロスが発生する
銀行は事前に相談してくれる経営者を最も評価する。スキームが定まらないまま融資を申し込む後継者には、DSCRが1.2を超えていても定性評価で格付けを下げることがある。7月中にスキームを確定し、8月の銀行事前相談に臨むのが15次公募の締切(7月24日)を考慮した最短ルートだ。
よくある質問(FAQ)
Q1. 株式譲渡で簿外債務を引き継ぐリスクはどう管理するのか?
表明保証条項を株式譲渡契約に織り込むのが標準的な実務だ。簿外債務が後日発覚した場合、売り手に損害賠償を請求できる。事業承継・M&A補助金の専門家活用枠で表明保証保険料が補助対象になるため、保険でリスクを遮断する設計も可能だ。
Q2. 事業譲渡の営業権(のれん)はどう評価するのか?
中小企業のM&Aでは超過収益法(3〜5年分の超過利益を積み上げ)が一般的。年商3億円・経常利益率4%の場合、営業権は500万〜1,500万円が目安。ただし銀行ごとに営業権償却のDSCR加算調整の扱いが異なるため、事前に確認が必須だ。
Q3. 新設法人でも使える補助金はあるのか?
事業承継促進枠は困難だが、専門家活用枠(FA・DD費用)は利用可能。また新事業進出・ものづくり補助金は法人設立後でも申請できる。ただし創業間もない法人は決算実績がなく、銀行融資のDSCR計算が成立しないため、融資設計のハードルが一段高くなる。
Q4. 事業譲渡の消費税は買い手が負担するのか?
原則として買い手が消費税を負担する。課税資産(設備・営業権等)に10%が課税されるため、買取総額5,500万円のうち課税資産が4,000万円なら消費税400万円が上乗せされる。この400万円は仕入税額控除の対象だが、控除までのタイムラグでCFが圧迫される点に注意が必要だ。
Q5. 株式譲渡と事業譲渡を途中で切り替えられるのか?
スキーム変更は可能だが、銀行の稟議書をゼロから書き直すことになり2〜3ヶ月のタイムロスが発生する。補助金申請書の前提も変わるため、申請準備もやり直しになる。スキームは最初に確定させるのが鉄則であり、三者同席キックオフで合意形成してから動くべきだ。
まとめ:スキーム選択の3原則
- 簿外債務リスクが明確でない限り、株式譲渡を第一選択とする——補助金枠・融資DSCR・税負担のすべてで有利
- スキーム確定前に両パターンの5年PLを作成し、DSCR差を定量比較する——感覚ではなく数字で判断
- スキーム確定後に税理士・銀行・補助金コンサルの三者同席キックオフで合意形成する——途中変更は2〜3ヶ月のロスを招く
従業員承継(MBO)のスキーム選択は、補助金申請や融資設計の「上流」にある意思決定だ。ここを間違えると、下流のすべてが歪む。PLの構造を見ると、株式譲渡と事業譲渡のDSCR差0.37ポイントは、承継後5年間の経営の自由度を決定的に左右する数字だ。






